明朝

全、きみに告ぐ

他ならない

◻︎生きている生きていく生きてきた、ことを知っているから

大森靖子を聴くしかないみたいなメンタルのなかでいまは「呪いは水色」がiPhoneのスピーカーから流れている。清潔な白い部屋でVOIDを聴きながらもうどうにもならなくなっていた瞬間を助けてくれたのは声をかけてくれた友人に他ならず、その友人の姿をガラス板越しに見るたびにあの日を思い出す。どうにもならなさをあんなにも救われることは、人生でも数えるくらいしかないんだと思う。いつか感謝を返せるといいなと思う気持ちを抱えながら、いまは小さな言葉を毎日返していけたらと思っている。友人の書く文章がとても好きだった。あなたが誰でどんな場所で働いていてどの性別の人を好きかは私にとってさほど重要ではなくて(もちろんそれらも包括して大切に思っているけれど)漠然と、恥ずかしいほどに出会えてよかったなと思う。一日でも長くあなたの文章を読み続けることができますように、と願っていたりする。

 

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◻︎餃子を上手に包める人になりたい

餃子は焼いても煮ても美味しいし人と作ると楽しい。餃子を上手に包めたらいいなぁ、と最近よく思っている。白い丸に包んで具。並べて水入れて蓋。じゅわ〜。

 

◻︎Sent message

短歌を詠んだり文章を書いたりしていると、自分の言葉は自分のためにしか機能しないと気づく。どこまでいっても自己満足。だから、ときどき人に「あの記事よかったね」や「読んだよ」のような言葉をかけてもらうともぞもぞと照れながら「え〜どの辺が〜?(にやにやが抑えられない)」みたいな、気持ち悪い反応を示してしまう。嬉しいから。自己満足で一人だけでやっていることを人に見てもらえているなんて本当にありがたく幸せだと思う。だから自分でも、文章を書いている友人や何かを発表している人にはできるだけいつも感想を寄せたいと思っている。「見たよー」とか「あの一文が好きだったよ」とか、もっと言葉を尽くしたものや。いつの日か、九州に住む友人に文章の感想を送ると「〇〇さんはどうやったらあの下手な僕の文をあそこまで褒められるのかなって。面白がれる方法みたいなものがあるのかなぁ」と言われた。そんなの私の方が嬉しくなるじゃん。この人には勝てないなぁと思わざるを得なかった。呟きのようであっても何気ない言葉がどこまでも刺さることは少なくなくて、それが肯定的なものであればあるほど私たちは幸せに近づいていける。尽くした言葉を軽やかに送り合うことで少しでも救われたらいいなぁ、と外に出られない日々の中で思う。

 

◻︎友人のブログの書き方を真似てみた話

人のブログを読みながら自分の文章を書くの、面白かった。全然仕上がり違うし。私はデニーズとサイゼリアを間違えて入店しちゃうような人間だけれどいつかあなたとパフェを食べる日に心(と体と)を躍らせながら今日も生きています。その日が花束のように彩られますように。あと、ちゃんとパフェのあるほうのファミレスに間違わず入れますように。