明朝

全、きみに告ぐ

小説を書いている友人と出会って、考えたこと

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小説を書いている友人がいる。

 

彼を初めて認識したのは、半年前の心理学の授業だった。

授業が終わるとまっさきに教壇のほうへ行き、先生に質問する姿が印象的だった。

初めは正直、変わった人だと思っていた。

次第に、「ああ、彼は疑問や気づきを自分だけでなく人と共有しようとする好奇心と向き合う真摯さをもった人なんだな」と思うようになった。

私もその心理学の授業や担当している先生のことが好きだったから、彼の姿をほのぼのとみていた。

 

あるとき彼と初めて会話を交わした。

それから、週に2、3回顔を合わせるようになった。

いつの日か、彼は私に「僕、小説を書いているんだよね」と教えてくれた。

彼がタブレットの画面で見せてくれた小説は、学校を舞台にしたものだった。

「ネットにも投稿してるから」と、ペンネームを書いたメモを彼は私にくれた。

 

彼の小説は、私にとって特別に目新しいもの、とは言い切れなかった。

それでも、自分の創作物を周辺の人に「見てみて。」と言える彼の姿勢を私は尊敬していた。

そういった、彼による関係の紡ぎ方を、人として、素敵だと思った。

 

承認欲求という言葉は、ときに揶揄のために用いられる。

けれどもそれは、人には当たり前に存在し、尊重されるべき欲求でもある。

 

小説を書く彼を見ていて知ったことがある。

それは、承認欲求の一つの理想は、

「ねえ、みてみて」「ほめて」と言える姿であるということだ。

 

大人になるにつれ、素直な言葉は口から遠のいていく。

それは、語彙を得て、もっと違った言葉で表現できるようになったという事実でもある。

 

でも、ときには素直な言葉を使っていい。

 

自信を持っている人は「自分には何が出来て、何をできないか」を知っている。

 

できることはできる、と

得意なことは得意、と言っていい。

それと同時に、

わからないことはわからない、と

できないことはできない、と

言っていい。し、言った方がプラスに作用することが多い、たぶん。

 

できなかったことで人に迷惑をかけたら、謝ればいい。謝って、次に自分がどうするのか伝えればいい。

 

毎日毎日、謝ってばかりの生活なら、そうだね、花でも生けようか。

枯れたなら花屋へ行けばいいし、ときには花摘みに出かけるのも素敵でしょう。

毎日毎日謝ってばかりの君に「謝って済む問題じゃない」なんていう人は、君のそばにいる必要ない。

 

わからないこと、たくさんあるね。数えあげればきりがない。

なぜ人は人を殺してはいけないのか、

なぜあらゆる差別や貧困はなくならないのか、

なぜ私たちは苦しみながらも生きていかなければならないのか。

なぜ私たちは苦しみながらも生きていこうとするのか。

 

ああ、今この瞬間も懺悔すべき相手が何人もいるね。

 

わからないことはわからなくていい、少なくとも今この瞬間は。

わからない、ともがいているときの君は「わからなかった瞬間の君」より前に進んでいる。

 

一緒に戦おうね。

あなたがあなたの選んだ土俵で戦いきる姿を、どうか、見せてください。