明朝

全、きみに告ぐ

2023/12/06 2:13

ふとこのはてなブログを開いてみようと思いつくときは、大抵ひとりで布団に入っている。通知をオンにしているでもなく、他の人の記事を購読するでもなく、つまりは何かを吐露するためのひとつの居場所としてnoteでもInstagramでも Twitterでもなくはてなブログを選ぶ日がある。そんな日があるというだけのことであって、それに意味を見出せるほどのことではないけれど。そう思っているだけで、きっとそれは寂しさという言葉で説明可能なのだけれど。無意識下での自分の振る舞いを指摘されることの面白さを最近感じることがあった。たとえば眠っているときの不遜な行動。寝言とか寝相とか、してるのかは知らないけどいびきとか。フロイト大先生の言うように抑圧された感情や願いが睡眠時に夢として表出しているのだとしたら、その一端を他者に目撃されるなんて、さてはかなりおそろしいことだなと思う。抑圧された感情が、つまりは、少しであっても表出してしまう程度に抑圧されきっていない。眠気にまどろんでいる間や眠りについているあいだの人間は、ほんとうに無防備だと思う。 何か書きたいことを携えて書きはじめるわけではないブログ記事には、別にそんな話をするつもりじゃなかったんだけれど、という思考の漏水がよく起こる。一昨日は京都御所のベンチでお弁当を食べた。午後の陽をあびて爛々とひかる紅葉や銀杏は、美しいなと思う一方で美しい以上の何かを受け取れたわけではなかった。美しさを美しさとして、そのまま受け取れる人間になりたい。寝静まった星の空からは、美しい以上の何かを受け取れることが多い。とうに日が暮れて真っ暗となった夜の御所は、ひとりなら歩くどころか自転車で疾走することすら怖くてできないだろうと思うような闇のなかだった。夜に包まれて色を忘れた木々、風で葉が擦れる音、ときどきパトロールのために通る宮内庁警察のパトカー。小さなころ、沢田マンションの前を通るたびにきっとここは一度入ったら出られない迷路なのだと信じていた。いまのわたしにとって夜の京都御所は、そうした畏怖とそれでも近づきたい好奇心の対象として位置している。また、エイリアンズを聴きながら歩きたいと思った。

2023/11/11 8:27

今日は朝から、物件を更新する手続きのために管理会社とのオンラインミーティングがある。この深夜は近所にある24時間営業のスーパーへ買い物に行った。みかんとバナナと野菜を購った。ほんとうはお菓子も買った。ここ一週間は10本くらい映画を観た。毎日会う人や起こる出来事によって、気分が晴れたり、その晴れた気分がまた元へ戻ったりする。おしまいだと思いながら閉じない目とともに迎える朝がある。傍らでずっと、大豆田とわ子を再生していた。暖かいごはんが食べたい。誰かにごはんを振る舞われたい。数日前に友人が、鶏むねと大根を炊いたものと梅のおむすびとお漬物をご馳走してくれた。わたしは白菜ともやしとお揚げのお味噌汁を作った。一人で暮らしていると、人の作ってくれた暖かいごはんは絶大な一手として日常を支えてくれる。また暖かいごはんが食べたい。きょうは午後、借りた本を返しに行きたいと思っている。『ハンチバック』面白かった。早くこの土日が終わればいいのに。月曜の朝が恋しいなんて、月金で入り浸るあの部屋をこよなく愛していた学部のころみたいだと思う。写真は昨日の夕餉のチャーハンと白菜のコンソメスープ。チャーハンは美味しかった。

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「エドワード・ヤンの恋愛時代」(2023年9月8日、京都シネマにて)

エドワード・ヤン。影の使い方が美しかった。

表情が見えないことの意味をこんなにも映像で実感したのははじめてかもしれない。光や陽のもとにさらされる、人に見せるための行動。夜の闇に紛れる、自分のための言葉。

急成長の発展が生むすれ違いや衝突の必然性。削がれる人間らしさにとても納得できた気がする。愛嬌を撒くことも、適当を演じる道化であることも、どちらも社会に対する自衛のように見えて切なかった。感情を全面にはぶつけがたい関係性の連鎖。ビルの窓から見える摩天楼。

ワンシーンだけ出てくる黄色いタクシーの運転手がつぶやく「生きてりゃそれでいい」。

エレベーターの中でチチが強く言葉を吐かれるシーンに一番震えた。言葉を発する主体の表情や仕草が秘匿されることで、その言葉を投げられた側の感情がより鮮烈に映し出される。そういえばラストシーンもエレベーターだって見終わってロビーで振り返ってるときにいまさら気づいた。

モーリーの人をときに傷つけるほどの気高い強さ。むかし友人から聞いた、母権制のもとで暮らす台湾先住民族の話を思い出した。

原題は「獨立時代」(独立時代)、英題が「A Confucian Confusion」のなかで、邦題が監督名まで入った「エドワード・ヤンの恋愛時代」なのは、良い題だとは思いつつも恋愛で括るんだなぁと。

(Filmarksより)

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2023/09/19 2:43

久しぶりに開いた

静かな部屋

冷蔵庫の駆動音

洗面台に落ちる水滴

ああこれが愛かと思う

エドワード・ヤンが私を見ている

クローゼットの扉にて

何を食べても解決しそうにない空白感

閉じた目の奥に広がる宇宙

波の音だけが聞こえる砂浜

に寄せては返して打たれた流木

のように眠るあなたの長い手足

美しいと思った

つやつやと陽の光を反射する夏の葉

のような肌

誰の足跡もない砂漠の表面のようになめらか

なくるぶしと膝の凹凸

 

2022/11/23 21:39

自分の機嫌を取るためだけの紅茶をいれる。口寂しさや空腹の実感から直ぐにスーパーへ走ったり回転寿司にミルクレープを食べに行ったりするのではなく、あたたかい紅茶をいれて、小皿にレーズンやくるみや棗をだしてつまんでみることにする。あとのことは、それから考える。アレクサにキリンジを頼み、なんか違うな、と小沢健二に変える。キリンジは寂しい朝の音楽。オザケンは元気を取り戻したい夜の音楽。強い気持ち・強い愛が響く部屋。レーズンにラムをかけると美味しい。そろそろスーパーカップにラムをかけたりレーズンを乗せたりする遊びを、したくなる季節なのかもしれない。生きる日々が続く。暗いうちに寝て、暗いうちに起きる。何をしているのだろうか、とは思う。身体の疲労は眠れば直るが、心の疲労は睡眠だけで治ることを許さない。そのどちらにも、対応できる人になりたい。お道具箱の中身を久しぶりに考え直したり、そうした一歩を、ああ、踏み出してみてもいいかなと思えるようになったことだけでも、愛したい。宇宙の中で良いことを決意することくらい、とはこうした重ね合わせなのかもしれない。自分にとっての正義を振りかざしたことの負い目を打ち明けたら、「正しいと思うことして胸張って生きてね」と言われた。ポリティカルに公平を求めることを望む強い自分と、生活すらままならず救いや許しによってかろうじて歩む弱い自分の、そのどちらもを他者の前にさらけ出すことを、少しでも厭わない日々を目指したい。

2022/10/28 19:01

ねむいけどねらんねー

ねちゃだめ

あいたいけどあいたくねー

あいたくない

「てか、誰?」

タメ口やめて

天国ランキング1位は君

10センチのマットレス

横になってる瞬間が至高

台所の電気は朝になってもまだ眩しい

洗濯物も洗い物も本当は面倒くさい

でも君が見てるならすぐしちゃう

そう、神様

分離する布団

厚くも薄くも

染み込むのは人間のにおい

羽毛を超えていく肌

逆さにつられたメジェドが僕らを見ている

2022/10/22

時代祭で道封鎖

ギリ間に合う

お砂糖だけのアイスコーヒー

財布を忘れ、携帯の充電も切れた人

1時間半歩く

コンビニ前のhow are you?

R指定を5倍濃くしたような出立ちの中東系の方

帰宅

豆乳坦々麺