明朝

全、きみに告ぐ

綿と海

明日は5時半起きなのに映画を観てからというもの、とてつもない気持ちになってしまって眠れない。ということをただただ書きたいと思う。

映画「寝ても覚めても」をみた。断トツだった。どの言葉で切り取ったとしてもどのような言葉を尽くしても足りないと感じてしまうほどに好きな映画。いつかの誠実でなかった恋を懺悔したくなり、そして、誰かに恋をし、思いを言葉として手から手へと渡すという行為をもっと生物を撫でるように重んじたくなった。恋や愛や性を傍らに関わっている誰とも、悔いなかったといつかの老いた日に思えるような付き合い方をしたいと感じた。通天閣、東京タワー、スカイツリーという象徴。外階段でキスをするシーン。彼ら、彼女らの送る生活のディティール。服。靴。駅。夜行バス。トンネル。光。猫。挙げればきりがないほどに、映し出されるいくつもの場面を愛おしいと思った。物語と自分の生活をトーンのように重ね合わせてみたとき「あ、これ知ってる」と感じるパーツを愛おしく思うのはいわば当たり前で、そういった形で物語を映画を観ようとすることは正しくないのかもしれないけれど、その重なりは現在の私にとって救いだった(し、この映画を必要としている人の存在を知っているから、あなたにも観てほしいのです)。唐田えりかさん演じる泉谷朝子、東出昌大さん演じる丸子良平。物語の中央に立つこの二人の素晴らしさはもちろん、田中美佐子さんが演じる岡崎栄子がすごくいい役だったことが濃く記憶に残っている。朝子の大阪での友人である岡崎の母、という役どころ。朝子にかける言葉から垣間見えるその人生は、遠くに住む人と恋したひとときを強く肯定するものだった。岡崎栄子という人物がこの物語にいたことを通して、「いつか笑い話になれば」と思いながら過ぎるしかないような私の毎日を、それはきっと間違いではないんだと思うことができた。ある時期以降、この映画は一部の人にとって色眼鏡のレンズなしには観られなくなったのかもしれない。ただ、そうであったとしても届いてほしいと願いたくなるような映画だった。誰をどのようにいつ好きになるかなんて倫理は、当事者のあいだで守られ、誰かを傷つけるものでなければ、許されるべきだと思う。誰かを傷つけるものでないのであれば。傷つけられた人の傷を、傷つけた人の罪悪感を、他者である私たちはどれほど想像したとしてもはかることは絶対にできない。絶対に。私たちに求められているのは当事者のあいだに存在するさまざまな背景を好きずきに啄むような野卑な振る舞いではなく、他者の傷をはかることができないという前提のもとに立ち、それでも抱きしめるべきだと判断した場面において両腕を差し出すことができる想像力なのではないだろうか。知らんけど。

軽やかにしかし慮りながらかかわりをかたどっていく方法を一人でも多くの人が知る世界でありますように、と思う。